「長谷川さん、肉面(にくめん)という言葉を知っていますか?」

酔っ払って部屋に乱入してきたO君は、絞り出すように語りました。

外はそぼ降る、雨の夜でした。下宿の後輩、O君が、同郷の友人と秋田弁で大声をまくしたてながら、帰ってくるのが聞こえました。嫌な予感がしました。

彼は2階の賄い付き組、自分は1階の自炊組でした。
雨にずぶ濡れになった彼は、庭からいきなり部屋に上がってきました。「あれ、長谷川さん、人が生きるか死ぬかの瀬戸際で苦しんでいるのに、勉強なんかしている場合ですか!」と叫ぶと、開きっぱなしの教科書を庭に投げられてしまいました。

教科書

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

後日、遊びに来たクラスメートが、雨にさらされたせいでぼろぼろになっている教科書を見つけ、「全然、授業に出てこないと思っていたら、家で猛勉強していた」という風評をクラス中に飛ばし辟易としました。

 さてO君が泥酔した真相はこうです:
大学構内で雨宿りをしていたら、高校時代から付き合って一緒に進学した彼女が、傘をさして目の前を素通りしていこうとする。
「おいおい、何で傘に入れてくれないの、俺のこと嫌いになったんか?」
彼女はぽつりと
「今は・・・好きとは言えない」と答え、スタスタと去っていった。
あまりのショックでO君は眩暈を起こし、もんどりうって水溜りに倒れこんだ。
やがて、立ち上がると同郷の級友を呼び出し、失恋のやけ酒を浴びまくり、支えられかつがれるようにして漸く下宿に辿り着いた。

O君はフォークギターが上手く(女性から“もてたい”ために必死に練習したそうです)、透き通った声量の持ち主でした。夏休みに、原宿のペニーレインや、嬬恋のコンサートにも出かけていきました。

彼の趣味はもうひとつ、麻雀でした。
“雀士”と銘打った名刺を自慢げに持っていました。

麻雀

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

当時、O君は、『麻雀放浪記』の作者、阿佐田哲也に心酔していましたが、彼の打ち方はgentlemanに程遠く、ロンをするとはしゃぎ、安い手で上がられるとふて腐るのでした。

冒頭の言葉に戻ります:
「長谷川さん、肉面(にくめん)という言葉を知っていますか?
きっと長谷川さんは自分のことを、いかにも軽い、浅はか者くらいに思っているでしょう。本当はそうではなく、真摯な人間なのです。ところが、人前ではついつい、ちゃかちゃか振舞って仕舞う、もともと仮面のはずなのですが繰り返していくうちに、いつしか顔にぴったり張り付いて取れなくなる、それを秋田では“肉面”と言うのです」

そう言い残すと、彼は2階に駆け上がっていきました。
思わず慙愧の念がこみ上げてきました。ちゃかちゃかした奴と決め込んでいたO君には、こんな実像が隠されていたのであり、教科書は投げられたけれど、ひとつ勉強をさせられたと思いました。

翌朝です:
O君は、ときおり、自分のところにインスタントラーメンを作りに来ます。
ガスコンロの脇にある卵を見つけ、「おはようございます。あれあれ、こんなところに卵がありますね。頂いちゃっていいですか? ラーメンには卵が一番!」といつもの軽いタッチです。

チキンラーメン

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分は起きだして、O君に改めて向き合い、「昨夜の“肉面”の話には感銘した。君のことを見直したよ」と真っ直ぐ目をみて話しかけました。すると、O君、「やだなあ、何も覚えてないんですよ。ところで、その“肉面”ていったいどういう意味ですか? ・・・秋田でも聞いたことはないですよ。そんなことよりラーメンが伸びちゃいますから失礼しまーす」・・・唖然として立ちすくみました。

O君は、大学卒業後一年間、文字通り麻雀放浪をしましたが、翌年、大手企業に就職、きちんと仕事に励み、現在は、地元で進学塾を経営、熱血教師として親身の指導で人気を博していると聞き及んでいます。